ヴィクトール・E・フランクルの夜と霧、根本裕幸氏のお弟子3期の講座でお勧めして
いただいた本の感想です。
もともと著者のヴィクトール・E・フランクル氏はフロイトと、アドラーに師事し、精神医学
を学んだ方です。そして彼はユダヤ人だったためナチス・ドイツのホロコーストの被害者
となりました強制収容所で体験したことを、なるべく感情的にならないよう淡々と描写
しています。その悲惨さは世界中で知られていますが、改めて読み直すと辛い内容です。
ただ、文字数もそんなに多くないですし、文体も新訳のせいか読みやすい本でした。
本の内容。前半はほぼ収容所での描写
著者の家族や、収容所に入るまでの生活についての描写は一切なく、収容所に入る
ところから始まります。収容所に入れられ、人間としての尊厳は一切剥ぎ取られ、名前も
ただの番号となる。おぞましい収容所での生活、食事、想像を絶する処罰。
それらの描写を心理学の観点からも書いています。食事も睡眠もまともに取れない
状態だと性欲というものは全くなくなってしまう。
そして殴られながら嘲られ、周りでバタバタ人が死んでいっても心が死に、感覚が麻痺
していくさま。人間が生命の危機に長期間晒されると、もはや人間的な感情よりも
どうやって生存していくのか、その一点のみに集中することになる。
そして感情の消滅、冷淡になり、無関心になる。およそ人間らしい、感情が麻痺していく。
恐ろしいことに人間は何事にも慣れる存在…。
ただ、こんな精神がまともでいられないこの状況でも愛で救われるということ。
愛は人が人として到達できる、究極にして最高のことである、と。
という一文に胸が救われる思いがしました。
相手が生きているか死んでいるかは関係なく、ただ、自分がその人のことを
思うこと。それにかわりはない。なんて深いんだろう。
精神の自由
人間の精神が収容所という過酷な環境に置かれた時、人々の大半は絶望し、生きる
ことを諦めるか、加害者となります。ただ、その中においても感情の死を克服し、
感情の暴走を抑えていた人。すなわち『わたし』を見失わなかった人たちもいたそうです。
苦しみ抜くということは精神的な、なにごとかを成しとげるということ。
どんな環境に置かれても最後の瞬間まで誰も精神的な自由を奪うことはできない、と。
生きることを意味あるものにすることは『わたし』でいること。
苦しみですら意味があり、苦しむこともまた、生きることの一部。
わたしは、ここにいるよ。
そして人間はいつ終わるのか見通しがつかないと、目的を持って生きることができない。
かといって過去にしがみついて心を閉ざすと成長は望めない。
収容所の過酷な環境でも自分を保つために一番必要だったことは【未来の目的】
人間は自分の未来が信じられなくなると、肉体的、精神的にも破綻し、死を迎える。
なぜ、どのように生きるのか?
生きる意味を問う。
そして一番心が震えた文章。
苦しみと向き合い、自分は他にはない存在であるという意識を持つこと。
誰も他人の苦しみを引き受けることはできない。
苦しむということは、ふたつとない何かを成しとげる可能性がある。
生きる意味とは死もまた含む、全体としての生きること。
苦しむことはなにかを成しとげること。
苦しみ尽さねばならない。
自分が『なぜ』存在するかを知っている人は『どのようなことにも耐えられる』のです。
この本を読み終わった時。心が震えました。しんどいな。辛いな。
そんな気持ちの時に読みました。
でも本を読み進めるうちに、特に最後の方のページを読んで、なんとも言えない
気持ちが湧いてきました。
自分の未来を信じ、苦しみ抜くことは、なにかを成しとげること。
苦しむことに意味があり、苦しむことは生きることの一部。
なぜ、どのように生きるのか?
自分に言われているように感じました。
この今の苦しみも、なにかを成しとげること、とても意味があること。
わたしは、今は苦しいけれどこれを乗り越えた先にはきっと“なにか”を成し遂げ
られるのでしょう。
この本を読んだ感想をもっと上手く書きたいのですが、上手く言語化ができないんです。
読んだ後に湧き上がってくる狂おしいほどの感情の波。
泣きそうになる、この言葉にできない感情。
心が震えた。苦しむことは意味があるんだ、と気づきをもらえました。
とても素晴らしい本でした。読んでよかった。何度も読み直したい。
お勧めしてくれた根本裕幸師匠に感謝したいです。
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